愛宕沢登山口から四方山
3月12日(土曜日)
今年も山の会の活動時期がやってきました。
一人で活動してたら得ることができない情報等。
楽しさいっぱいなのですよ。
亘理中学校付近でバスを降り(9時53分),愛宕沢登山口(10時12分)へ
- 愛宕沢
- 愛宕山周辺の沢の事。
砂防ダム有。
ビックリする位に急に水かさが増すので,「動顛沢(どうてんさわ)」とも言われた。
- 愛宕山
- 151.0m「おはたごさん」と呼ばれる。
全国的に存在し,今日と愛宕神社【火伏の紙】の分霊を祀る。
亘理町地区まちづくり協議会「亘理の里山」より抜粋。
愛宕沢登山口で,面白い人に出逢いました。
道端でカメラのセッティングをしていたので。
「バードウオッチングですか?」と話しかけてみました。
すると。
「いえ,苔です」
「苔?」
「そうです」
「な~るほど。だから,霧吹き持ってるんですね」
そして,その人に教えてもらい撮影したのが。
玉苔と言うのだそうです。
そして,どうも苔のポイントがあるらしく,そのポイントを転々としながら撮影しているらしいのです。
なかなか,面白いな~と思いながら。
キョトキョト
そして,木漏れ日に光る苔。
「ウ~ム。綺麗ですね~」
なんてことやってる間に・・・
見事に置いて行かれました。
「お~い。マッチクリ~」
今年も皆さん気合入ってますな~。
そして,角田側に向かって断崖絶壁の尾根(10時39分)。
角田側に向かって仁王立ちしてるのは,我局長。
「おめ~さんら。間違ってね~かい。こんなに削っちまって。山が泣いてるのが聞こえね~のかい」
そして,角田側が断崖絶壁の尾根には。
鴻ノ巣峠(10時41分)
- 鴻ノ巣峠
- この辺りにコウノトリが生息していたので,そう呼ばれたと言われている。
『伊具郡誌』には
「坂津田区橘沢より亘理町に通ずる処にて道甚だ険峻にして人馬の往来最も不便である」
と記録されている。
付近には歯山神の碑と馬頭観音の碑がある
亘理町地区まちづくり協議会「亘理の里山」より抜粋。
足尾神社の碑(10時44分)
*尾神社??
長年の風雨にさらされたのでしょう。
はっきり読めませんでした。
後日,写真に撮った亘理里山ルート図を見ていて判明。
- 足尾神社の碑
- 鴻ノ巣峠の崖の上にある。
かつての人々は峠を安全に超える事を祈り建立したのであろう。
亘理町地区まちづくり協議会「亘理の里山」より抜粋。
ツツジノ森(10時52分)
閑居山(11時04分)
- 閑居山(かんきょやま)
- 204.4m
麓の地名は,大雄寺の坊さんが,隠居して住んだ静かなところという意味で閑居と名付けられた。
その近くの山で,閑居山。亘理町地区まちづくり協議会「亘理の里山」より抜粋。
夜討坂(~11時32分~)
- 夜討坂
- 戦国時代(天正年間)に,伊達氏が相馬氏に夜討を掛けた時に通ったからという『伊具郡詩』による。
割山峠や明通峠が開通した後は,通る人がなくなった。
亘理町地区まちづくり協議会「亘理の里山」より抜粋。
夜討の結果が気になる様子の局長。
夜討が,どの戦いの時によるものなのか,その結末は?『伊具郡誌』未確認のため不明。
という事ですが・・・気になりますよね。
伊具郡誌を調べに行く時間がないので,相馬氏と伊達氏の長くに渡った抗争から推測してみる事にしました。
それもまた楽しいのですね。
- 相馬氏と伊達氏の抗争
- 相馬氏と伊達氏との抗争は,天文十一年(1542)「伊達氏天文の乱」がきっかけで起こり。
天正18年(1590年)に至る半世紀の間に,30回もの戦いが繰り広げられた。
との事。
「伊達氏天文の乱」とは,伊達 稙宗(だて たねむね 伊達家14代当主:伊達政宗の曽祖父)と伊達晴宗(だて はるむね伊達家15代当主:伊達政宗の祖父)との諍いがきっかけで起きた争い。
事の起こりは,稙宗が三男実元を越後守護上杉氏に送りこもうと画策したのに対し晴宗が反対。
これが火種になり,稙宗の日頃からの独断専行に対する家中の不満が呼応したことで,父子の争いが伊達家全体の争いに発展。
その結果,晴宗が稙宗を桑折西山城に幽閉。
ところが,忠実な家臣であった小梁川宗朝(こやながわ むねとも:晴宗の死後墓前で殉死)が晴宗を救出。
稙宗の娘を正室にしていた相馬 顕胤(そうま あきたね 相馬家14代当主)に救援要請したことが,さらに問題をややっこしい方向に発展させていきます。
そして,顕胤ちゃんは此れに応えちゃうのです。
どんな思惑があったのでしょう。
「嫁のオヤジ殿の一大事」と単純に考えてはいけないような気もします。
何と言っても戦国時代。
顕胤も野心家であった可能性はあるのです。
それは,「晴宗,久保姫略奪事件」にその一端を伺い知ることが出来ます。
この晴宗が久保姫を略出した事件は,稙宗の子,晴宗の正室に岩城重隆の娘を仲介した様に情報操作し?
重孝がその約束をたがえたように画策?
岩城と伊達との不協和音を作りだし,挟撃の危険から自分の領地を守ろうとしたとも考えられるし。
また,白川と岩城の不協和音も同時に作り出せる。
推測の域を出ませんが。
話がうまくつながるので,多分あってる様に思います。
実はこの事件。
不思議な展開を見せるのです。
もともと岩城重隆は,娘の久保姫を白河晴綱に嫁がせる事にしており,先方の了解も取付,婚礼の日取まで決まっていました。
今だったらまだしも,当時ですからね,ドタキャンはヤバイです。
それを判っていて顕胤は,この美しい久保姫を晴宗に紹介した可能性はあると思うのです。
紹介しないまでも,奥州一の美少女と触れ回ったのではないでしょうか。
伊達家次期当主の正室に,相応しい女性だとか言って。
そして世間的にも,久保姫が晴宗の正室になると情報をリークした。
晴宗は,まんまとこの顕胤の策略に乗せられてしまった。
つまり,この久保姫を横恋慕してしまったのです。
そう,顕胤の策略はうまくいった。
そして,その輿入れの途中,晴宗自ら軍勢を率いて久保姫を奪い取り,いきなり正室にしてしまったのです。
世間的には,岩城重隆が約束を違えた事にしてしまえばいいと,晴宗にこっそり耳打ちしたのかも。
その後の,顕胤の岩城氏に対する言い分は言いがかりのような気もします。
と言うか・・・事実だとすれば,言いがかり以外の何物でも無いと思います。
約束を違えた事を口実に,岩城領の富岡・木戸を奪いとったりしちゃったのですから。
シメシメうまいこと行ったぜ。
と,「ニヤリ」としたのかどうかは分かりませんけど。
「したと思うな」
「したでしょう絶対」
「でも,何故岩城重隆は,やりたい方出させてたんだろう」
「力関係じゃないのかな~」
「戦国武将って,我ままで恥知らずって事だよね」
「そうじゃないと生き残れない?」
「生き馬の目を抜く戦国時代って事だね」
どうでしょう。
こう考えると顕胤が晴宗を焚きつけた可能性は,充分あると思うのです。
ただ単に,晴宗のごり押しと言う線も捨てきれませんが。
それに。
岩城から白河へ向かう一行を襲う訳ですから,誰か手引きしないとね。
軍勢を率いて襲うのは難しいと思うのです。
顕胤ちゃん結構ヤバイ橋渡ってると思いませんか。
戦国の世ですから。
ね,やっぱり何かありそうでしょう。
義に篤い奴だったのかも?という考えもありそうですが。
で,話を「伊達氏天文の乱」に戻すと。
救援要請を受けた顕胤は,田村隆顕・二階堂照行・葦名盛氏らとともに桑折西山城に駆け付け,稙宗を救出。
そして,稙宗・晴宗の親子の仲介をし,和睦の道を探ったけれどもうまくいかなかった。
家臣との溝。親子の溝はかなり深かったようです。
この事が,さらに抗争を激化させ,奥州諸大名を巻き込む大乱に発展させることになります。
平穏無事を願っただけなのかもしれません?
それとも,伊達家の混乱に乗じて,伊達と接する北側の土地(伊具)の領有権を狙う目論見があったのかもしれません。
和睦の道を探ったように見せかけ,更に拗れさせた可能性も否定はできない気がします。
実際この後,伊具郡を領有化するのですから。
この後。
伊達稙宗・相馬顕胤⇒相馬盛胤⇒相馬義胤
伊達晴宗⇒伊達輝宗⇒伊達政宗
とによる争いが半世紀に渡り繰り広げられることになります。
主な戦い
元亀元年(1570年)
相馬氏が伊具郡小斎・丸森城などを占拠し、伊具郡を領有。
天正九年(1591年)4月、
相馬盛胤・義胤父子vs伊達輝宗・政宗(初陣)父子
戦場:伊具郡矢野目(伊具郡の小斎城主佐藤伊勢守・宮内父子が伊達方に寝返ったのがきっかけ)
天正十一年(1583年)
伊具郡の領有権伊達に移る。
天正十七年(1589年)5月19日
伊達政宗が宇多郡に侵攻して駒ヶ峯城を攻略。
同5月20日
蓑首城攻略。
蓑首城には亘理重宗が入り宇多郡北部は伊達領となる。
同7月
相馬義胤は7月に亘理郡の鳥の海(宮城県亘理郡亘理町)と坂元(宮城県亘理郡山元町)に於いて。
伊達勢と戦うも劣勢を挽回することは出来なかった。
天正十八年(1590年)5月下旬、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると相馬義胤が秀吉に謁見。
相馬氏共々伊達政宗も小田原城征伐に加わる。
ここに相馬氏と伊達氏との積年にわたる抗争にようやく終止符がうたれ、相馬氏の危機は回避された。
- 夜討坂の逸話
- 夜討坂の逸話は,30回にわたる合戦のなかで,おそらく相馬氏が危機に瀕し始めた頃の出来事だと思います。
可能性としては,天正17年(1589年)7月の合戦の時と思われます。
鳥の海の横に布陣した相馬勢が,この布陣を見た時。
伊達勢の意外に少ない兵力をこう分析したのではないでしょうか。
全ての兵が阿武隈川を渡り切っていないか,渡らせることが出来なかった。
そして地理的優位に,勝利を確信したのではないでしょうか。
ただ,伊達勢の援軍が来る前に,できるだけ早く決着をつける必要がある。
更に有利に進めるために,相馬勢もおそらく夜襲を考えていた。
ひたすら真直ぐ進めば,伊達勢を阿武隈川へ追い落とすことが出来る。
力で押そう。
ところが伊達勢は。
鳥の海に布陣する相馬勢の背後に回り込み,夜討を掛けるべく,兵を移動させていた。
この海と山を利用した包囲殲滅作戦に使われた山道が,夜討坂だったのだと思います。
しかし,伊達勢にすれば,合戦の火ぶたが思ったより早く切られた。
それは,相馬勢が伊達勢の援軍が来る前の早期決着を考えたからでしょう。
ですから,完全に包囲する前に合戦が始まった。
この偶然が重なって,完全に包囲のできなかった浜沿いを,相馬勢は坂本まで逃げることが出来たのだと思います。
そこで戦線の立て直しを図った。
しかし,一度敗走した兵の指揮を維持するのは困難だったと思われ,結局坂本でも敗走することになったのだと思います。
と言う仮説が成り立つような気がします。
- 補足
- 夜討坂は幅も狭く,短時間で多くの兵を移動させるのは困難であったろうと思われます。
今歩ってもそう思うのですから,当時はもっと環境は悪かったと思います。
ですから,夜襲をかけた時に通った山道と言うよりは,闇夜に紛れて相馬勢の背後に兵を移動するために通った山道。
という風に考えた方が理に適ってると思います。
兵を相馬勢の背後に展開しないうちに,相馬勢に襲い掛かっても,狭い山道の出口付近を塞がれてしまえば,一乗寺の決斗(吉岡道場vs宮本武蔵):吉岡道場の二の舞になるでしょうから。
夜討坂と言う名称から,あくまで夜襲にこだわってみましたが,相馬勢の背後に兵をある程度布陣できた段階で,勝敗は決したのだと思います。
それに,浜沿いの地域は,初夏の朝は霧が発生しやすい気候になります。
例え,天気予報で,晴れ,降水確率0%と気象予報士が断言したとしても,風の無い日は霧が発生します。
その霧を利用しようとした可能性は充分にあります。
合戦前夜までに夜討坂を中心に兵を配置し,夜の闇を利用して山を下り,朝が来る前に・・・最悪でも霧が晴れる前に,相馬勢の背後に兵を展開しようと考えたのだと思います。
尾根沿いの山道に事前に兵を配置しておいたとしても,下る道は一本であったと思われ,兵の布陣にはそれなりの時間がかかったはずです。
前日の夜から移動を始めて,一晩はかかるように思います。
気配を悟られない様にしながらですから。
そして,最悪の場合でも霧を利用する。
しかし,布陣の最終段階に差し掛かろうとしてる時,風が吹いて霧が晴れだしたのかもしれません。
霧が流れだし,その合間から見える兵の姿に,相馬勢は凍り付いたのではないでしょうか。
そして,完全に包囲できないうちに,合戦の火ぶたは切って落とされたのでしょう。
この場所は,尾根沿いの道と角田側に下りる道・亘理側祈りる道の十字路になっており,十字路の真ん中に立つと風が抜けて行くのが分かります。
我々がここで休憩した時は,冷たい海風が亘理側から吹き上げてきており,山道が風の通り道になってる事が分かります。
気付かなかったのですが。
ここには山神の碑があり,通行の安全を願って建立された物らしく。
亘理と角田の間の生活道路だった事を窺い知ることが出来ます。
黒森山(12時05分~12時40分)
- 黒森山
- 255.0m
崩れやすい地を「クレ」と言う。
その「クレ」から黒(クロ)になったのではないか。
森は山の意である。
里山全体は,低い(200m前後)割に急斜面である。
かつては,草刈り山・芝刈り山であった。
地形測量の一等三角点があり,関心を持ち訪れる人がいる。
山から黒森沢が流れ,その沢の奥に「入会林野整備事業完了記念山」の碑がある。
亘理町地区まちづくり協議会「亘理の里山」より抜粋。
山メシ!!
煮しめ・唐揚げ・卵焼き・鯖の味噌煮(フフフ)
オカズの左側の丸い容器に入った,茶色い粉をまぶしたような食べ物は,ティラミスです。
生れてはじめて食べました。
僕としては,鯖の味噌煮を二つにしてもらえると・・・ありがたいな~と思ったのでした。
四方山(13時21分)
- 四方山
- 262.5m
このあたりでは一番高い。
四方が良く見えるので,そう呼ばれたらしい。
戦時中に砲台が造られ様としたが,間もなく終戦になり,造られなかったという。
(造られても役に立たなかっただろうと思うけど)
山頂に,雷神・蚕神を祭る。
山頂で雨乞いをしたという。
亘理町地区まちづくり協議会「亘理の里山」より抜粋。
途中,ちょっと寒かったけれど,楽しい山行でした。
皆様ご苦労様でした。