多くの人に語りかけ,多くの人に質問しました。
無視される事が多かったような気がします。
無視?ではないのかもしれません。
自我の欲求するところの欲の大きさに霞んで見えるのかもしれない。
或は,僕自身が人の社会で霞んだ存在か,見えない存在なのかもしれない。
後者であれば見えないまま,独り言も言わず生きて行けるでしょう。
いづれ大きな力に押しつぶされるかもしれませんけど。
でも楽かもしれない。
前者の場合は,その人の欲の中で,のたうち回り苦悩しながら,自己を隠蔽しなければいけなくなります。
悲しい事に,この前者が,今の自分かな?
言っても仕方がないのですから。
言わなくなる。
至極当然の結末ではありますね。
そして,平衡が失われていく。
時間の流れの節目節目で,多くの人が感じる現実ではないでしょうか。
そして,それに気付く時,同じことをしていた自分にも気づかされます。
自我の平衡を保つために醸し出される差別の意識。
それは,人が人故に持って生まれた,生きる為の術なのだとしたら。
とても悲しい事です。
お互いに語りかけあう事で,ひとの心は存在し。
互いに意識し合い,その意識に振れる事で,自分の意識の存在を感じる。
自分の右手と左手を重ね合わせて,体温の違いを知ることができない無いのと同じ様に。
それは,違う体温,違う価値観に触れる事でしか自分を意識できない事を物語っている。
こころの芽生えは,言葉と言う水が必要なのでしょう。
コンコンと湧き出ながら淀むことなく流れる水。
その透き通るような水をたたえた社会は,多くのこころが芽生え,多くの意識の中で新たな価値観が育まれる。
湧き出る水が途絶え,淀んでいく水の中で,社会は新たな価値観を創出できなくなり,より多くの価値観が隠蔽されていく。
淀んだ水の下で生まれた言葉は,人の思考を停止し,意識までも奪う道具となる。
それは,自我の欲するままの淀みのなかでは,多くのものが霞んでしまい。
違う価値観に触れることが出来なくなってしまうから。
そして,泉はいずれ枯渇し。
欲の中で,多くの意見を蹂躙し,バイアスをかけて,封じ込める。
そして,融合することができない思考が,淘汰しあう社会になる。
過ちを認めず。
正当化するために吐き出される言葉。
都合のいいように,捻じ曲げられる真実。
攻撃的になり,敵対して揺さ振りを掛け,相手に畏怖を植えつけ,歩み寄る。
それぞれ自分の意志で見。
自分で考え。
自分の言葉で話す。
確かめもせず不用意に拡散などさせない。
自分の五感と六感を働かせて,判断する。
震災後50ヘルツと60ヘルツが共存する無駄を唱え,簡単に統一できると言い切った人物がいました。
原子核工学を専攻して,後に自然エネルギー政策の第一人者?と言われる人物です。
これは,技術的根拠に乏しい絵空事であると言わざるを得ません。
絵空事と言った根拠は『電気は生もの-商用電源周波数と系統連系』でアップしてます。
この人物がどこまで本物か疑わしい限りです。
それに踊らされ?たのか,自ら踊ったのかは分かりませんが。
対談形式でエネルギーシフトの本まで出版してしまった大手出版社まである。
技術の分野でも,芸術の分野でも,登山の分野でも,なにかとても怪しい人間が闊歩している。50ヘルツと60ヘルツが共存することは無駄だという事は,誰もが知っています。
マスコミに踊らされない。
政府のプロパガンダに踊らされない。
発信者に都合のいいバイアスがかかった情報に踊らされない。
社会の表層を被う情報には,責任の所在の明確でない情報があります。
その情報が,社会そのものまで動かし始めてる事に愕然とします。
周波数を統一するという事は,そう単純な事ではないのです。
よく,お勉強してから発言しなさいと言いたいですね。
いずれ,一般家庭のオフグリッド化が進み,電力会社に依存しない時代が来れば,こんなことは考えなくても済むことになるのだし。
是非,そうあって欲しいし,できない事ではないでしょう。
問題は,原発を推進するために邪魔者を排除してきた巨大資本の動向です。
崇高なもの,最高の思想,究極の技術など存在しない。
言葉から醸し出させる思考や技術は,時と共に変化し作り上げていくものであろう。
今,正しいと思っている考え方やいま培っている技術は,時と共に陳腐なものに成らないとは限らない。
震災後。
様々な矛盾が浮き彫りになりました。
権力を持つもの,あるいは社会的地位あるものが,自らの責任を自覚できない。
そして,責任を自覚し,言葉とこころを取り戻そうとするものには何の力もない。
狂信と偏見は何よりもその国の命と思考を損なうものであることを,大きな戦争を経験した我々は知っているはずなのに。
社会的地位や権力は器に過ぎない。
器に見合った精神的骨格。
それが備わっていない為の不幸が蔓延している。
器を得る為のテクニック。
器を得る為の手段が,生きる目録の中に明記されている。
それは,どこか戦前の時期とよく似ている。
左の手にミルクを,右の手にパンを持てば。
更にミルクやパンを持つことができない。
欲するんであれば,ミルクを飲み干すか,パンを食べるか,ミルクかパンをテーブルの上に置くしかない。
ところどころに,パンが落ちていたり,ミルクがこぼれたりしてるのは,独り占めしようとする者がいるからだろう。