人は,不愉快になったり,怒ったり。
何故,不幸な気持ちになるような,そんな環境の中に身を置くのでしょう。
避けて通れない場合もあるし,あえて避けない場合もある。
人が不愉快になるであろうと分かっていながら,そういう環境を作り,人にストレスを加える?
人が不愉快になるであろうと分かっていないで,そういう環境を作り,人にストレスを加える?
自分の欲する物の為に?
自分の不快さを取り除くために?
悲観的で否定的な思考をもとに,事実をゆがめ,その歪んだ事実を基に行動する。
人の意見を好意的に受け止めず,怒りを通して批判する。
そんな事をしていたら,壊れてしまいます。
そうやって壊しあって,人も組織も壊れてしまいます。
仕事を通して知り。
友人を通してしり。
震災を通して知りました。
人のこころは,とても儚く脆い事を。
だから,お互いに認め合いながら受け入れて,支え合う事が必要なんだと。
生きる事に大して意味は無いのではないか。
生きるスタンスに意味があるのではないか。
何か意味を探そうにも,見つける事などできないで終わるのではないか。
何かに意味を見いだそうとしても,見つける事が出来ずに終わるのではないか。
そう言う虚しさがついて回ります。
意味がないものなどない。
確かにそうだろうと思います。
しかし,自然の中では,その意味すらなにか色褪せて見える時があります。
広い空間にポツンと1人。
その中ではとても無力な生き物。
という実感がヒシヒシと伝わってくるときがあります。
人の持つ虚栄など,自然の生命力の中では,きっと簡単に踏みつぶされてしまうものに過ぎない。
しかし,その虚栄が集まり,虚栄が虚栄を呼び込むようになるとき。
その力は臨界に達し,大地を震撼させる暴走をする危険を孕んでいます。
そして,それは地球上の生き物の危機を招くことになるのではないでしょうか。
宇宙空間の歴史からすれば,些細な事なのかもしれませんが。
避けようのないトラブルに見舞われて,怒りそうになったときの解決策。
そんな虫のいい解決策があるの?
山ン中に居れば,まずそんな事は無いし。
山のトラブルは即遭難だから,激怒してる暇など無いし。
平地では「ヌハハハハ」と笑い飛ばせばいいだけなんだけど,そうはうまくはいかないし。
ノイズ(雑念)の多く発生する状態では,モードのスイッチが簡単に切り替わってしまう。
笑い飛ばす。
でもね,笑い飛ばす事では,いつまでも笑い続けなければいけなくなってしまうのでは?
笑いつづけた結果,笑いが自分の体の中で虚しく反響するだけになるのではないでしょうか。
集中する。
ノイズをクリアにするための方法としては集中。
トラブルの素に意識を集中して観察する。
それが出来ないのであれば,無視するか心を閉ざすしかない。
のだと思います。
親の仕送りで過ごしていた時期。
働きながら夜学に通っていた同郷の友が,勤労感謝の日が近づくと,勤労青年が休む日だと言い続け。
そして,当日になると一日中事あるごとに「勤労青年は休みましょう」と言い続けていたのを,僕へのあてつけのような気がして,いやな思いをして聞いていた記憶があります。
自分へのあてつけと考えず。
彼の言葉の内側に潜む意味を観察してみるべきだったのです。
言葉の裏に潜む意味など無く,ただ単にそう思っていたかもしれないのだし。
「こっちの連中と一緒にいないで,俺達と一緒に居ようぜ」という言葉に対しては。
どんな意味があったのだろう。
そのままかもしれないし。
今となっては,観察する対象がいないので,明確な回答はだせませんが。
その後彼とは疎遠になって行きました。
当然と言えば当然の成り行きだと思いますけどね。
同じテーブルの上に居ながら,どのようにコントロールするか?
それは,観察する事。
観察することにエネルギーを費やす。
それでも,逸脱しそうになったとき
「イチ ・ ニ ・ サン ・ シ ・ ゴ ・ ロク ・ シチ ・ ハチ ・ キュウ ・ ジュウ」
って数えて,名探偵ポアロの顔を浮かべるのです。
コレ決行効き目があります。
何故ポアロなの?
最近,名探偵ポアロのデジタルリマスター版を,テレビで放送しています。
tomoさんが,アガサ・クリスティーのファンで,付き合ってこの頃見る様になりました。
そして,このポアロの顔が,不思議な効果があるのを知ったのです。