さてどっちが楽しい?
歩く目的で,歩き方も楽しみ方も違うでしょう。当然。
藪漕ぎと人漕ぎでは?
どちらがシンドイ?
「そりゃ~やっぱり藪漕ぎでしょ」と山開きのときのMr.k。
確かにそう思います。
痛いですし,疲れるし,夏は極めて暑いし,見通しが悪いので道迷いしやすいし。
下手すると遭難ですもんね。
でもですね。
藪を払いきれず顔や体に当たったり,跨ぎきれずに足に引っかかってズッコケても。
「ナンダヨ。ナニスンダヨ」て事にはならないけど。
人を掻き分けながら,掻き分けきれずに,ぶつかるとですね・・・トラブルになることがありますよね。
この違いは何だろう?
疲労の質も違いますよね。
前者は体力の消耗が著しいけど,後者は精神的な消耗が著しいように思います。
前者はエネルギーの補給で補えるけど,後者はどのようにしたらその消耗が補えるのでしょうネ。
エネルギーの供給で補おうとすると・・・・太るよね?多分。
山歩きの目的と街歩きの目的の違いって?
街歩きには明らかに目標とする場所があり,その場所に行く為の手段と言う意味合いが強いように思います。
ですから,目的の場所へ向かう途中のイレギュラーは,寄り道等と言うのだと思います。
それに,目的達成のための方法論として,歩きやすい道が作られ,同じ高さの段差の階段が作られ。
歩く行為そのものにルートファインディングをする必要性が無くなってしまったのだと思います。
イレギュラーに弱い現代社会の縮図が歩く行為の中にあった。
等と大げさな事を・・・。
しかし,利便性の追求をすることで,本来持っていた人の感覚を失いつつあるのではと危惧するのです。
山歩きは,目標とする場所は当然ありますけど,歩くこと自体が目的の一部としてあるように思えるので,イレギュラーは付き物。
イレギュラーに遭遇しても,寄り道という感覚はあまりない。
イレギュラーに対処できない人は,道迷いによる遭難や怪我等と言うリスクと隣り合わせ?
というかいつも背中に背負ってに歩っているのだと思います。
山歩きは,目的とする頂上に着かなくても,それは山歩きの一部として受け入れることが出来るけれど。
街歩きで目的とする場所に着かなかったとすると。
これはエライコッチャなのですね。
人の世界の目指す方向は,間違っていないのだろうか?
山を歩くことで深く考える様になりました。
目の前の利便性を追求するあまり,100年先が見えなくなってるのでは?
日本の夏は暑いものだし,冬は寒いものなのです。
津波対策を講じるよう陳情してきた人たちに,いつ起こるか判らない事に金が使えるか?
と門前払いにしてきた。
そんな行政手腕が評価されてきた時代に戻りつつあるのではないのだろうか。
暑い夏をより暑く過ごすための都市生活サイクル。
狭い空間の快適さを追求するために捨てられるエネルギーは,共有される空間をどれだけ不快にしてるかを考える時ではないのでしょうか。
地球と共生し末永く人が快適に生きる為に,歩く快適さを見つけることができる都市空間を構築すべきですね。
街歩きが楽しめる。
そんな都市空間があれば素敵だと思います。
そんな都市空間があれば素敵だと思います。